自分語り(豪華な付録付き)

はじめに

私は活動家ですので、ここに下手なこと書くといろいろバレてしまうので、伏せ字にしてる箇所があります。何書いてあるか脳内で補いながら(そういうものとして)楽しんでください(笑)。あと完全に自分語りです。権力以外の人に読まれることを想定していません。大切な時間を費やして読むべきか、考えてから読んでください。

 

私は今、三里塚にいる。三里塚は成田空港のど真ん中にある農地で有機農業を営んでいる場所だ。1965年に成田新空港建設が閣議決定されて以来、「農地を奪われてなるものか」と農民の方々が闘って守り継いできた土地だ。三里塚のすごいところは、単なる農民階級による土地収用反対の闘いで完結するのではなく、徹底的に労働者階級と連帯し、革命に向かうものとして闘われているところだ。成田空港建設反対の闘いは、当時的にはベトナム戦争反対の闘いと直結していた。

そんな三里塚だが、先日17日には裁判所から不当判決が出たばかりで、仮執行を迎えるかもしれない決戦情勢を迎えている(とりあえず100万円払って3月までは大丈夫らしい)。決戦の三里塚を学生も支え、同時にその闘いの精神を学んで持ち帰れたらと思っている。

 

援農初日の感想:猫いっぱい(=^・^=)。かわいい。今も執筆活動を邪魔されながら書いてるにゃん。

 

さて、本日私がここに書き記すのは、熊野寮への思いを再発見した話である。

 

最近、○○などの場で私は「熊野寮に元気がない」だとか「なんで熊野寮を好きになったか分からなくなってしまった」みたいなことを話す機会が多かったと思う。その言葉を聞いて、「コロナのせいかなぁ」などと考えた人もいたと思う。だが、熊野寮に対する思いを見失ってしまった根本の原因はコロナではなく、それ以前にもあったと自分は認識している。

熊野寮に元気がない」「やればできる感覚が失われている」と感じるようになった大きな要因が、時計台占拠をやらなくなったことにあると認識したのは、9月冒頭に○○の○○が決議された頃である。ここで自粛ムードの強さ、裏返してみれば、やればできる感覚の消失を感じ、その発端を考えたとき、2018年に自ら切り縮めるような形で時計台占拠をやめてしまったことに行き着いた。熊野寮の自粛ムードはコロナというよりも、根本的には弾圧に対する日和りから始まったんだと気付いた。

やってみれば案外うまくいくという感覚は、バイアスはかかっているかも知れないが、間違ったものではないと思う。もちろん、準備とか計画とかは万端にしなくてはならないが、寮生が創意工夫を凝らせば、実際わりとうまくいく。だが、当局の弾圧とかをきっかけに、失敗するんじゃないかという心配がだんだん大きくなり、自粛ムードが生じ、実際にやってみる機会が失われてしまったことで成功体験も減り、やればできる感覚も失われてしまっていた。

 

ひとつ原因はわかった。でも、状況を打開するのは簡単なことではない。このまま、何もできないつまらない寮として終わりを迎えてしまうことも考えられた。

 

9月の頃というと、ちょうど自分の身の回りでも、親しくしていた人たちが相次いで寮を離れたりして、寂しい思いをしたり、鬱がちになることも多かった。なんのために貴重な時間を自治に費やしているのか、分からなくなることも多々あった。少し時間が経って、北海道○○のときに、みんなが寮への思いをアジテートする時間ができて、雰囲気がすごく良かった。けれど、思いを率直に語れる他の寮生と、うわべだけのことしか語れない自分を比較してしまい、むしろ自分は辛くなってしまった。翌日、完全に動けなくなってしまって、少しの間行方を眩ませたこともあった。

このときは、学習会の提起を控えていたこともあり、グズグズしておれず、怒りの感情で応急処置して寮に戻ってきた。「みんなは寮を好きだけれど、自分は少し違くて、当局なんかへの怒りの感情があったからここまでやってきたんだ」と自分に言い聞かせようとした。

確かに、自分の決起の原点は、怒りの感情であったことは、間違いないだろう。2017年の10月末に、阿津さんと安田さんがふざけた理由で逮捕されたこと、同年の時計台占拠で当局が警察を導入したことなど。それから、熊野寮が受けようとしていたテレビ取材を、当局がテレビ局に圧力かけてやめさせたときには結構怒って、クスノキ前にこたつを出してD棟談話室だと言って、その場で取材を受けたりもした(京大特集の一環として熊野寮にも来る予定だった)。怒りの感情を契機に運動により深く関わるようになった。

しかし、これだけ怒れることの背景には、やはり寮への、京大への、仲間への愛があったんじゃないかと思う。

 

しかし、怒りはあくまで応急処置だった。心の整理もつかないまま、しかし情勢は待ってくれず、熊野寮は今年、時計台占拠を敢行した。結果、結構うまくいった。うまくいってしまった。寮祭の勢いそのままに「12月処分撤回・阻止緊急集会」に突入して、こちらも大成功してしまった。その甲斐あって、今熊野寮には「やればできる」感覚が取り戻されつつあるんじゃないかと思う。実際、どこまでもいける気がしてる。

 

時計台占拠と12月集会の成功は、寮にとって非常に大きな意味があることだ。一方で、自分個人としては、この過程の中で寮を好きになった理由を思い出せた気がする。

そのきっかけになったことのまず一つは、人付き合いの苦手な自分でも、人間にこだわりをもってやってきたのだなと感じる場面があったことだ。

私は以前、○○を○○していた。○○はすごい人で、こちらから討論を仕掛けるのに、こちらが日和ってしまうような人だ。○○の方もそれが分かっているので、自分はナメられてしまっており、○○はうまくいかなかった。しかし、今年の12月集会で、○○が○○の○○を○○しているところを見て、「自分ももっと○○しなければ」という思いに駆られ、気づいたら体が動き出していた。○○という人格にこだわって○○していなければ、そんな思い・行為には至っていなかっただろう。この文章を読んでいる○○に、今もナメられている、ウザがられている気がするが、とにかく私は、自分に「人間にこだわる」という性質があったことに気付かされた。

また、信頼している先輩だけどずっと元気がなかった○○が時計台占拠をきっかけにもっと頑張る的なことを言ってくれた時には涙が出た。

寮での人間関係の希薄さがコンプレックスの自分でも、感情的になれるぐらいには誰かを愛していた。寮生が好きだから寮が好きなのだ。

 

それから、もう一つの寮を好きな理由を発見するにあたっては、最近○○が○○で引用した「個人的なことは政治的な問題である」という言葉が、重要なピースとなったと感じている。この言葉の言わんとしていることは、一人一人が抱えている個人的な問題というのは、実は社会的・政治的な背景を持ったものであるということであり、ゆえに社会的・政治的な解決をみんなですることが求められるということだと思う。要するに、僕がここで重視したいところだけをピックアップすれば、一人の問題に対してみんなで取り組むことが重要だということだ。

自分は寮内の立場上、寮生の問題について相談に応じたりする機会が多いが、最近は一人ではなく組織的に対応することが多くなっている気がする。それから処分の問題は、まさに個人的な問題として表出される全体の問題であり、みんなで支えることが求められるものだ。

私は最近、熊野寮の魅力というのは、一人の問題に対して、みんなで取り組めるところにあったのではないかと思うようになった。仮に、自分が熊野寮を最初に好きになった理由が違ったとしても、今の熊野寮は、実際に個人の問題にみんなで取り組めていると思うし、そういうところは素晴らしい、守り継いでいくべきだと思う。

"One for all, all for one."という言葉がある。かの法政大学闘争の際にも、この言葉がしきりに使われたらしい。一人とみんなが互いに支え合うというのは素敵に聞こえる。しかし、動労千葉(国鉄民営化時の1027名の整理解雇撤回を掲げて今日まで不屈に闘い続けてきた労働組合。冒頭の三里塚と最も緻密に団結してきた。)の元委員長である故中野洋氏は、この言葉について"all for one"が常に先行して始まると述べているそうだ(解雇問題の文脈で)。

最も矛盾を抱えた個人の問題を、個人のものとして放置するのではなくて、いかにみんなの問題として捉え、みんなで取り組むか、これが、最も問われる。これは社会運動の場だけではない、あらゆるところで当てはまることなのではないだろうか。世の中では自己責任論や自己負担原則がまかり通ってしまっているが、個人レベルへの分断や他者への無関心の先に、豊かな社会が待っているとは思えない。

バイト漬けになってしまう、コミュニティに馴染めない、肩身が狭い、仕事が負担だ、大学に処分された(1個だけ異質で草)。熊野寮で起きているこういった問題に対して、みんなで取り組むところから始められないだろうか。もしかしたらそれが、9月にいなくなってしまった私の友人たちにできる最大の報いなのかもしれない。

 

P.S.

リクエストが多かったので、自分が寮祭企画「くまゼミ」で提起した「大学改革ざっくり論」のスライドを掲載しておきます。→https://drive.google.com/file/d/1qLU6A7wHO5wUVns2wyOt3WH1jsHl3VWq/view?usp=sharing

 

ジブリを見ながら一晩で作ったにしてはクオリティ高かったと自分でも思います。でも、ファクトチェックとかあまり出来てないので、必要に応じて一次資料に当たってね。